2007年02月07日
適塾-1
■『適塾』 【重要文化財】 大阪


新幹線に揺られながら 『るるぶ大阪』 に目を張り、このスポットに行ってみることにしました。
まずは外観から…。
適塾の盟主は緒方洪庵(1810~1863)である。当代きっての蘭方の医者、学者であって、教育者でもある。
1838年(天保9)から1862年(文久2)の25年間大阪・船場にあって塾を開き若き人々の教育にも多大の精力を注いでいた。その力量を知る幕府は1862年(文久2)、江戸に召しだし奥医師とすると同時に西洋学問所の頭取としたのである。洪庵不在の時期も義弟や子息、門下生達は塾を守り、さらに分塾をするほどに発展したが、明治新政府の教育制度の整備と共に発展解消し、大阪医学校、府立医科大学、さらには大阪大学へと発展し、今日にいたっている。
適塾は全国から駆けつけた塾生にあふれ、談論風発の気風はその後の明治維新の激動の中、日本の運命に大きく貢献した多くの人材を輩出している。そんな塾生には福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲などがいる。
適塾は昭和15年に大阪府の史跡、翌16年には国の史跡として指定され、昭和39年に重要文化財として指定された。その間の昭和17年緒方家から国(大阪大学)に建物が寄贈され、今日にいたっている。
適塾は江戸末期の遺構として、当時の大阪の船場町屋の姿を伝える貴重なものであって、昭和51年から実質5年を掛けて解体修理を行い、修復を機に広く一般に公開している。
地元の小学生の社会見学とかち合い、ゆっくりとは見られませんでした…。
※ 『適塾』 の詳細はこちら ⇒ 適塾
(20070206旅)


新幹線に揺られながら 『るるぶ大阪』 に目を張り、このスポットに行ってみることにしました。
まずは外観から…。
適塾の盟主は緒方洪庵(1810~1863)である。当代きっての蘭方の医者、学者であって、教育者でもある。
1838年(天保9)から1862年(文久2)の25年間大阪・船場にあって塾を開き若き人々の教育にも多大の精力を注いでいた。その力量を知る幕府は1862年(文久2)、江戸に召しだし奥医師とすると同時に西洋学問所の頭取としたのである。洪庵不在の時期も義弟や子息、門下生達は塾を守り、さらに分塾をするほどに発展したが、明治新政府の教育制度の整備と共に発展解消し、大阪医学校、府立医科大学、さらには大阪大学へと発展し、今日にいたっている。
適塾は全国から駆けつけた塾生にあふれ、談論風発の気風はその後の明治維新の激動の中、日本の運命に大きく貢献した多くの人材を輩出している。そんな塾生には福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲などがいる。
適塾は昭和15年に大阪府の史跡、翌16年には国の史跡として指定され、昭和39年に重要文化財として指定された。その間の昭和17年緒方家から国(大阪大学)に建物が寄贈され、今日にいたっている。
適塾は江戸末期の遺構として、当時の大阪の船場町屋の姿を伝える貴重なものであって、昭和51年から実質5年を掛けて解体修理を行い、修復を機に広く一般に公開している。
地元の小学生の社会見学とかち合い、ゆっくりとは見られませんでした…。
※ 『適塾』 の詳細はこちら ⇒ 適塾
(20070206旅)
Posted by kon at 22:04│Comments(0)
│街並探訪
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